コロナ禍の今「無相教会御和讃」に思う

無相教会弥栄え
 コロナウイルスが世界中に拡大し、私たちの生活は一変した。無相教会への影響も大きく、2月以降、教区の発展拡充大会、部連合講習会に加え、秋の全国大会までもが中止となった。各寺での御詠歌練習も所謂「三密」に当たるため、再開する判断が難しい状況である。改めて仏教の「無常」を痛切に感じることとなった。加えて会員さんは高齢の方が多く、一度切れてしまったモチベーションを再び高めることは難しいとも予測される。もとより全国的に会員数は右肩下がりに減り続けていた矢先のコロナ禍。「無相教会弥栄え」の言葉が空しく響く。このまま無相教会の灯火は消えていってしまうのであろうか。

詠歌和讃の数数を
 コロナ禍を体験して、いかに私たちの周りにはフェイクニュースが多いか、ということが良く分かった。ネットにはあやしげな情報が毎日のように流れ、有名人のつぶやきが多く流れてくる。それらに振り回され、社会全体が疑心暗鬼になってしまったように感じる。
 これからアフターコロナの世を生きる今、私たちは道しるべを必要としている。今のメディアやコメンテーターの言葉は道しるべとなりえない。私は、その道しるべの一つが「詠歌和讃の数数」であると思うのだ。
 今、改めて「温故知新」の大切さに気づく。古きをたずね、新しきを知る。ぽっと出た言葉には重みがなく、忘れられるのも早い。しかし、「詠歌和讃の数数」は、インド・中国・日本と脈々と伝えられてきた教えが歌詞となっている。そこには歴史があり、重みがある。長く伝えられてきた言葉はそれだけの理由があるのだ。

一つにまとめ わかつなる
 しかも御詠歌のすばらしい点は、わが身だけの独覚ではないというところである。御詠歌は大人数でお唱えする。その瞬間、心をひとつにまとめ、皆でその境地を分かち合う。ここが詠歌道の最も大切な点であると考える。仏道を歩まんとする仲間が集ってはじめて、そこに僧伽(サンガ)が成立する。仏教の原点である。生老病死の真っ只中を会員さん方と「手を把って共に行く」、禅の根本が無相教会にはある。この灯火を絶やしてはならない。

心をきよく 身をおさめ
 私たちは自分の外に広がる世界を眺めるのに忙しい。忙殺されていると言ってもよい。しかし、視点の半分は外を向いていても良いが、半分は本来自分を見つめなければならない。そうでないと、足元がぐらついて前に進めないのである。
 だから私たちは「一日一度は静かに坐って身と呼吸と心を調えましょう」と勧める。そして自己を見つめるのである。御詠歌をお唱えすることは、まさに「静かに坐って身と呼吸と心を調える」実践行であるとも言える。「心をきよく身をおさめ」、正身端坐して「唱え奉れるまごころは、諸仏の浄土に通徹」しているのだ。

涅槃の岸に到るべし
 私たちの目標は、生きているうちに涅槃の岸にたどり着くことである。「無相教会御和讃」三番は明確にそれを示している。「心はほとけ 身は浄土 般若の船に棹さして 涅槃の岸にいたるべし」。山田無文老師は、般若心経の最後「羯諦羯諦」以下の真言部分を「着いた、着いた、彼岸へ着いた。みんなで彼岸へ着いた。ここがお浄土だった」と訳されている。この世にいながらにして、心は釈迦と別ならざることを自覚し、この世にいながらにして、浄土の日暮らしをしてゆく。そのために自分には何ができるのか。今日一日をどのように過ごしてゆくのか。「無相教会御和讃」は常に私たちに問いかけている。

おわりに
無相教会の行く末は、大変厳しいものであることは予想に難くない。価値観の多様化、集団行動の忌避などの社会的要因もある。社会も人間の嗜好もまた無常なのである。しかし、次のようにも考えられる。
『易経』に「窮すれば変ず、変ずれば通ず」とある。困って困って困り果てた時、私たちは変わることができるのだ。そして、私たちが変われば、自ずと道は通じる。言い換えれば「困った時はしめたと思え」であり、「ピンチはチャンス」である。
 御詠歌には、先人の教えが惜しみなく示されている。それはアフターコロナを生きる私たちの道しるべとなり得る。しかも、それをリズムにのせて、口ずさめる形で完成された形で使うことができる。これほどの布教教材は他にないのではなかろうか。妙心寺派が誇る宝である無相教会の灯火を絶やしてはならない。それを広く分かち合う手段として、新しい手法を用いる必要があることは言うまでも無いことであるが、やはり私は伝統こそが大事だと思うのである。

(令和2年5月、無相教会本部へのレポートより)