一番大事なこと -大学摂心に参加して-

 私は、神戸の祥福寺専門道場で四年間、河野太通学長老大師の下で雲水修行させていただいておりました。ご縁があり、現在、花園大学大学院生としてお世話になっております。
 昨年、大学摂心に参加させていただきました。あいにく、お忙しいのか教授方はあまりみえておられなかったようにお見受けしましたが、それでも百名程の学生の方々が参加し、短い間でしたが、みなさんと共に坐禅をし、お経をお唱えする機会を得ました。
 さて、大学摂心はなんのためにあるのでしょう。私なりに、このことについて考えてみました。

一、「教」と「禅」

 禅宗の祖、達磨さんが伝えられたとされている楞伽経によりますと、宗教というものには、説通と宗通と二つあるとされています。説通とは論理的説明であり、宗通とは神秘的経験です。これは「教」と「禅」に置き換えることができると思われます。
 「教」とは、例えば、「悪いことをしてはいけない。よいことをしなさい。」、「はきものをぬいだらそろえましょう。」「常にきよらかな心でいなさい。」などというお釈迦様のお教えのこと。あるいはお釈迦様から脈々と今まで伝わってきた正法を聴く、あるいは祖師方が残された書物を読ませていただく、あるいは自然に学ぶ、それが「教」です。花園大学で教授方の講義を聴く、これも「教」であるかと思います。
 それに対して「禅」とは「心の名なり 心とは禅の体なり」と古人が示しておられますが、お互いがお釈迦様とまったく同じ心をいただいて生きている、そのことを一人一人が体験を通じて発見する、それが「禅」であろうかと思います。そういう意味で、「禅」はお釈迦様のお悟りに直結しているといわれております。
 そして達磨さんは、宗教は、「教」と「禅」の二つがそろっていなければならないと説破しておられます。いくら「教」、学問があっても「禅」がなければ、それはあたかも、この世の真実を求めてあちらこちら走り回ることはできても、肝心の真実を見てとることができないような有様です。又、「禅」の神秘的経験があっても、「教」、論理を積まなければ、それは、見ることはできる、この世の真実は見えているんだけれども、他人に納得させることができないことになってしまいます。「教」と「禅」が一致してはじめて完全な宗教ができてくる。仏教とはそういうものでないといけない、ということを達磨さんはおっしゃられております。

一、世界唯一の臨済禅の大学として

 今、花園大学を臨済宗の中で唯一の大学として目を向けた時、どうでしょうか。
 一方では、書誌学的研究や歴史学的研究、語学的研究がさかんにおこなわれています。これらは「教」の一面であろうかと思います。
 人は、宗教のようなよりどころがないと、すぐに迷ってしまいます。現代人が失いつつある宗教心をもう一度呼び起こすためには、やはり学問は必要だと感じます。本質的には禅宗は理屈では届かない、知識では届かないものであるにしても、人々を教化するには、どうしても方便としての知識が不可欠でありましょう。
 社会全体の文化レベルが上がり、一人一人の教養も深まっている現代においては、これまでのように聞いていても意味が分からないお経を呪文のようにお唱えするだけではもう通用しないと思います。分かりづらい宗教は、そして分かりやすく説こうとしない宗教者は不必要になっていくはずです。
 特に、これからの二十一世紀というさらなる国際社会を見据えたとき、このグローバルな時代にあって宗教を、臨済禅をかかげる私たちが他国の宗教者と相対する際に、理屈抜きの境地だけではもはや通用しないでありましょう。そういう意味において、「教」、学問はもちろん重んじられるべきだと思います。
 しかし、「教」を、学問を追い求めるあまり、大学摂心などの「禅」がおろそかにされてしまっては本末転倒になろうかと思います。
 他のあらゆる宗教や教学仏教と一線を画する禅宗の特色、つまり、歴史上の過去でもなく未来でもなく、たった今、私たちが神様・お釈迦様とまったく同じ心をいただいて生きていることを自覚する、という「禅」が軽視されるのは非常に危険なことだと思います。くれぐれも道をあやまらないようにしなければなりません。
 「禅」は説けるものではない、説いてはいけないという風潮もありますが、臨済さんは、「禅」は説くことができない、しゃべるものではないと言って黙ってはおられませんでした。臨済録の大半は、懇切に、丁寧に、皆が分かるようになされた説法なのでした。私は、人生の糧とならない宗教学は果たして真の宗教学と言えるのだろうか、という念を常に抱いております。
 「教」と「禅」とは、本来、決して矛盾するものではなく、お釈迦様のおおいなる慈悲のみ心に端を発する、私たちの宗門の、花園大学の両輪であり、どちらの方もおろそかにはできないと感じます。

一、人生で一番大事なことはなにか

 人生で一番大事なことはなんでしょうか。果たして私たちは、二千五百年前のお釈迦様を拝むのではなくして、今生きている各々の心の中のお釈迦様を発見することが人生の一番大事なことでなければならないと思います。
 お釈迦様は、この世界は無限に広いが、そのすべてが自分の家であり、そこに住む迷える心を持つ、生きとし生けるものは私の子供である、とおっしゃられました。そのおおいなるお釈迦様のみ心を、自分の心の中に発見することは、まさに人生の一大事であります。
 そして、それはいくら書物を読んだり、講義を聞いたり、外に向かってあちらこちらに求めたりしても届かない、一人一人が坐禅等の実践を通じて体得するしかないものだとするならば、大学摂心は、一泊二日と短い期間ではありますが、人生で一番大事なことを会得する、私たちにとって非常に貴重な機会ということができます。
 今年も秋に大学摂心が行われます。去年よりもより多くの方々の参加を祈念します。そして、大学摂心に参加したことが、自分はなんのために生まれてきたのか、自分とはなにか、人生とはなにかと、自己をみつめていくきっかけとなれば、と願っております。

                
 (花園大学発行『ねんげ』第19号より)